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「執拗低音」と「主旋律」/丸山眞男②

総選挙たけなわである。「日本政治」「日本社会」とは一体どんなものなのだろうか。

ぼくは、それを考える上で、丸山真男の「古層」論に関する論文をすべて読んだ。ざっと挙げると、1972年の『歴史意識の「古層」』、1979年の『日本思想史における「古層」の問題』、1984年の『原型・古層・執拗低音』、1985年の『政事の構造』の4篇である。丸山本来の専門である「本店」に関する論文は、この「古層」論をはじめ全部読んでいる。これらに加えて、古層論の原型スケッチとも言える『丸山真男講義録・第4冊・日本政治思想史1964』も精読した。丸山は東大におけるこの講義録の中で、こう述べている。

――過去の思想をわれわれが認識する意味は大きい。それによって、われわれの中にひそむ無自覚的な考え方を自覚でき、その結果、そのコントロールが可能になるからである。

なぜ丸山が日本思想史を攻究したか。また、なぜわれわれが丸山を読むか。その意味を考えるうえで上記の言葉は示唆的である。この考え方を丸山はヘーゲルとマルクス、そしてカール・シュミットから学んだ。ヘーゲルは時代をトータルに認識する。しかし、それはいつも時代が終った後であり、その意味で「ミネルヴァの梟は夕暮れになって飛び立つ」わけである。しかし、マルクスはこの認識をひっくり返し、ある時代をトータルに認識することができるとすれば、その時代は終焉に近づいている、と読んだ。この認識のもと、マルクスは資本主義的生産様式、資本制社会構造の解剖に情熱を捧げ尽くした。この関係を戦前の学生時代にシュミットから学んだ丸山は、こう考えた。

――僭越な話ですけれど、日本の過去の思考様式の「構造」をトータルに解明すれば、それがまさに、basso ostinato を突破するきっかけになる、と。(『日本思想史における「古層」の問題』)

丸山は当初、日本の思想の「古層」について、「原型」、「プロトタイプ」と呼んでいた。後になって「古層」と言い換えたが、それでもマルクス主義に言う「下部構造」や「土台」とまちがえられることが往々にしてあるため、さらに後には「basso ostinato」と呼ぶようになった。丸山の好きな音楽用語で、執拗に続く低音音型のことだ。日本語で「執拗低音」とも呼ぶようになった。

つまり、古くは律令制、あるいは儒教、仏教、キリスト教、マルクス主義といった思想の主旋律は外から横波のように入ってくるが、それらの主旋律に日本古来の執拗低音がいつも絡んで、いつも同じ方向に変化させてしまう。そこに日本の思想の独自性が見られる、という考え方だ。その basso ostinato を認識し、構造を解明すれば、現代において日本政治の方向性をコントロールでき、突破するようなこともできるようになる。丸山が日本思想史を攻究し続けた動機はここにある。

では、日本における basso ostinato とは何か。どのようなものなのだろうか。丸山は、『古事記』と『日本書紀』の分析を通して、一言で言えば「つぎつぎになりゆくいきほひ」という言葉に集約した。つまり、日本のbasso ostinato とは、常に「いま」の連続の形態を取り、「いま」が「つぎつぎになりゆく」。そして、そこにいきおいがついていく、という形態である。

――瞬間、瞬間、「いま」が天地の始めとして、「天地初発」のエネルギーがその瞬間、瞬間にロケットみたいに発射される。(略)大化改新の時もそうですし、明治維新の時もそうです。明治維新の例で言いますと、改革のモデルを何にとろうか、と考えたわけです。(略)天地初発でいわば無からの出発だから、比較的自由にヨーロッパの制度を取り入れられた。(略)日本には復古史観もなければ、目標史観というのかユートピア思想もなく、絶えず瞬間瞬間のいまを享受し、その瞬間瞬間の流れにのっていく。したがって適応性はすごくある。(『日本思想史における「古層」の問題』)

この特徴、思想の型が日本の歴史意識におけるbasso ostinato であるというわけだ。この古層のうえに展開した明治維新をはじめとする日本政治、日本社会は次のような発展の仕方を見せる。

――(明治維新は結局)イデオロギー的鎖国、技術的開国という使い分けに終わったわけです。(略)「国体」が日本の軸になって、それに奉仕し、それを強化するものは外国(具体的には西洋)からとり、それに反する「悪しき」イデオロギーや制度は排除する、という「選択的」開国が明治20年代以後の近代日本を通ずる特色です。(略)イデオロギー的鎖国、技術的=テクノロジー的開国という使い分けが近代日本の特徴で、そのもっとも極端になった1930年代以後の軍国主義時代にも、技術面では開国だった。」(『原型・古層・執拗低音』)

そして、戦後、さらには現在も日本はこの古層からは完全には逃れえていないのではないか。古代史、中世史を攻究した石母田正の研究をひいた丸山シューレの一員、飯田泰三は、こう解説している。

――石母田は、明治維新が「宗教改革」を伴わぬ近代国家形成として遂行された結果、そうした「未開」のマギー性を払拭できない「古層」が残存し続け、しかもそれが近代天皇制によって再活性化されたことにより、のちに「戦後民主主義」が「日本人の自己変革」を図ろうとする課題を掲げたとき、いわばそれが最大の障害物として立ちふさがるに至ったのだという。そういう「実践的観点」からのみ「日本人論」なるものは意味をもつのだ、というのが石母田の結論であった。(略)そして、戦後の「民主化」の根幹となるべきものが、自由な「主体的」人民の形成であり(「その主体を私達がうみだすことが、とりもなおさず私達の「革命」の課題である」『日本の思想』)、さらに、その課題を妨げる最大の要因が、「天皇制」的な精神構造と行動様式(まさに「なりゆき」と「いきほひ」で行動と思想を「つぎつぎ」に変えてゆく「無責任の体系」)なのであった。」(「丸山真男集」第10巻解題)

そして、丸山の言う「政治意識の古層」、basso ostinato にはもうひとつの形態がある。それは、「正統性と決定権の分離」である。政治的実権は常に下降する傾向を持ち、トップは常に正統性の根拠、シンボルにとどまろうとする。たとえば、上皇と天皇、鎌倉時代以後でも将軍と北条執権、室町中期以後の下克上、江戸期の側用人の出現、そして2・26事件を象徴とする陸軍部内における青年将校の台頭、などといったような事例だ。

この時に、トップの持つ正統性は、以前のブログでも説明したが、絶対者のもとにあるorthodoxy 、つまりO正統ではなく、支配の legitimacy 、つまり単なるL正統にとどまる、という点が重要だ。天皇制をはじめとする日本の支配の構造が、L正統にしか基づかないという構造的事実が、丸山をして、主旋律ではない basso ostinato の探求に向わせた。

そして、この丸山の古層論に対する批判を通して、われわれは日本の政治的、社会的特徴についてさらに新しい側面を見ることができる。

丸山とすれちがいで日本法制史・国制史の研究に入った水林彪が、同じ方向性にありながらも丸山の「古層」論に対して微妙な批判を加えている。水林は、律令政治体制が中国から入ってきた大化の改新以前と以後を分け、丸山の言う「古層」という術語とはちがう意味で、大化以前を「古層」と呼び、大化以後を「新層」と呼ぶ。

水林の言う「古層」、つまり大化以前は、日本では選挙王制の支配形態を取り、むしろ未開に近かった。大化以後の「新層」は、中国から入ってきた新しい律令国家体制と、土着未開的な在地首長制的社会との二重構造を取る。水林は、この律令と土着未開の二重構造が入り交ざった「新層」こそ、日本の basso ostinato ではないか、と説く。そのうえで、水林は、丸山の古層論の危うさをこう批判した。

――石母田のいうように、大化前代の社会とそこでの思考は、広く他の未開社会と共通し、その意味で特殊日本的なものとはいえない性質のものとして存在していたと考えられますが、丸山的原型(古層)認識の手法によれば、特殊日本律令国家的思想の色眼鏡で潤色されて構成されてしまうことになり、その結果、大化前代から特殊な「日本」なるものが存在したかのような虚像が作り上げられることになりかねないのです。(『思想史家・丸山真男論』)

水林は、石母田の説をひき、大化前代の日本社会は、ミクロネシアなどの南太平洋諸島の未開社会と共通の特徴を持ち、なんら日本独自のものではなかった、と説明している。たしかに丸山は記紀の分析から大化以前の社会の思想、構造を導き出そうとしている。その結果、大化前代から特殊日本がありえたかのような、ある種不思議な「ナショナリスト・丸山」が出来上がってしまう。ここのところ、古代史が専門ではない丸山のたしかに限界を画する部分ではなかったか、と思う。

この水林の指摘で大変におもしろいところは、丸山・日本思想史におけるA構想とB構想の両立だろう。A構想というのは、丸山の古層論、basso ostinato の論理を展開する一連の思想史のことだ。そして、B構想というのは、この古層から日本独自の普遍思想的契機の自生的な成長と挫折があったのではないか、と論を展開するもうひとつの思想史である。

B構想は、鎌倉時代、源頼朝の武士における天道、道理の観念、さらに御成敗式目にあらわれた道理の観念に、武士のエートス、普遍者の自覚への回路が生まれ出る可能性があった、ということだ。この点は、丸山の1965年度の東大講義、つまり『丸山真男講義録・第5冊・日本政治思想史』で展開されるが、その思考の中心は、1960年の論文『忠誠と反逆』ですでに展開されている。主君に対する忠誠の果ての反逆にこそ武士のエートスがあり、そのエネルギーの爆発に日本思想のダイナミズムがある、としている。

いずれにしても、このB構想を第5分冊に含み、東大での講義を記録した第4分冊から第7分冊までが、丸山が生前に達成することのできなかった日本政治思想史通史の試みの現存する骨組み、あるいはスケッチである。この国の政治、社会のあり方を考える時、避けては通れない労作である。

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