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「流刑地」で起きていること/三島由紀夫①

今から100年前の1925年1月14日にある男がこの世に生まれ出た。

平岡公威。後に作家となったこの男は「三島由紀夫」と名乗り、ほぼ55年前の1970年11月25日に自ら命を絶った。三島とは何者だったのか。

生誕100年を機に、連続して考察してみたい。最初のこの回は、その死の意味あるいは無意味の側面をスケッチしてみる。

三島が生まれるほとんど半年前の1924年6月3日に没したプラハ生まれの作家フランツ・カフカに『流刑地にて』という短編小説がある。『カフカ短編集』(岩波文庫)の中にあ
って、異様な中にも異様な短編である。

私的に要約版を書いてみる。


――ある国の流刑地島に立ち寄った旅行家は不思議な体験をする。刑執行の将校から、その島の刑について実地に説明を受けるのだが、説明を受けた末にとんでもない目にあう。

刑執行を担当する将校は裁判官も兼ねており、その開発した機械で受刑者を処刑する。機械の中にうつぶせにされた受刑者は、上から降りてくる鉄製のくしのような針のかたまりで背中にその罪名を刻み込まれる。

この処刑には12時間かかり、これほどの時間をかけて苦しみ抜いた受刑者は最後に穴の中に落とし込まれる。

説明を受けた後、実際に処刑が執行されたのだが、その受刑者の罪名は、「上官を敬うべし!」。上官の門番役をしている兵士だが、たまたま夜中に居眠りをしてしまった、という罪だった。

処刑が始められたが、旅行家はいやでたまらない。刑のあり方、裁判制度すべてに不満と疑問を持つ。たまたまこの時の流刑地の司令官は、この処刑制度に批判的だった。旅行家は、司令官に進言してこの処刑制度を廃止させようとまで考える。

刑執行役の将校は、旅行家に対して、この処刑制度のすばらしさを説き制度存続への協力を依頼するが、当然のことながら断られる。そこで将校は、処刑中の兵士を釈放し、自ら服を脱ぎ始める。

将校は旅行家に、新しい罪名での処刑をこれから執行することを告げる。罪名は「正義をなせ」というものだった。自ら機械の中にうつぶせになった将校は、機械を作動させて自らを処刑する。

しかし、この時機械は壊れて、処刑に12時間かかるところをきわめて短時間のうちに将校の命を奪った。将校の遺体は穴の中に落ちた。


カフカの短編は何度も読み返しているが、時を経るとまた読み返さなければならないのではないか、と思えてくる。ある時、この短編を読み返しながら、この将校の名前は「ミシマ」というものではないかな、とふと思った。

『流刑地にて』の将校には何のイデオロギーもない。あるのかもしれないが、旅行家の目を通して考える我々には解読不能である。

これを別の角度から言えば、こうも言えるのではないか。つまり、三島由紀夫のイデオロギーを知らない現在の「旅行家」の目から三島の死を見れば、『流刑地にて』における印象とさほどちがったものにはならないのではないかということだ。

命を賭してまでして何かを証明しようとする衝動。それはやはり自らの死後、その行為が解読されるという予測可能性が多分に存在しなければならないだろう。

三島の場合、その予測可能性が十分に成り立つという特殊な日本の社会という前提があった、ということだろう。そうであれば、その場合、「切腹」「介錯」という行為も、そのような前提の上に成り立ったものと考えなければならない。

命を賭してまでする自己証明の伝統。あらゆる「旅行家」から見れば、不可解以外の何者でもない。

『流刑地にて』における旅行家は、最後に島を離れるシーンで、船に同乗させてほしいという兵士や看守を脅しつけてまでして、彼らを拒否する。

自ら命を絶つ行為。その記憶が現代のわれわれに生々しいのは、昨年7月7日に自ら命を絶った兵庫県の西播磨県民局長である。だが、その死は本人が期したであろう予測可能性に基づいた解読をされることはなく、政治的に捻じ曲げられ続け、汚辱に塗れさせ続けられている。不可解な部分がそのまま利用され、汚辱に塗れた手と口で転がされ続けている。

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