日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が今年のノーベル平和賞を受賞した。1956年8月10日、長崎市での第2回原水爆禁止世界大会2日目に結成した被団協、結成宣言「世界への挨拶」には「私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合った」と記されている。ノルウェーのノーベル賞委員会が10月11日、この被団協への授賞を発表した。米軍が広島、長崎へ原爆を投下してから79年、非人道的な被害を世界へ告発し、「再び被爆者をつくるな」と、核兵器廃絶を訴え続けてきた活動が評価された。
ウクライナに侵攻したロシアが「核の脅し」を繰り返し、イスラエルがガザで戦闘を続け、ともに核兵器保有国であるイランとイスラエルが戦火を交える中、核戦争の回避と核兵器廃絶、世界平和の実現を国際社会に迫る受賞となる。
広島、長崎に落ちた核兵器とは、一体どういうものか。核爆弾が炸裂すると、その瞬間、温度は1000万度にまで到達する。人間は瞬時に焼けてそのまま蒸発し、爆風と衝撃波で周囲のすべてのものを吹き飛ばす。同時にあらゆる方角に電磁波が走り、様々な放射線が人間の身体を刺し貫いていく。少し時間を置いて放射性物質の「死の灰」が降り、生き残った人間の身体に死神のように取り憑いていく。
ぼくは朝日新聞社の経済部記者だった時に、それまでの取材結果を生かして『ドキュメント金融破綻』(岩波書店)という本を書いた。ところが、この本を出したことと、「月刊文芸春秋」誌上で、ある大銀行の深刻な不良債権の状況を暴露したことが社内的に問題視され、記者職を外されることになった。
だが、一線から外されたことで、昭和史を中心とする日本の現代史を勉強する大変有意義な時間と機会をいただくことになった。左遷先のデータベースセクションで、昭和元年からの朝日新聞のデータベースを作ることになり、昭和史を勉強しながら、昭和元年からの朝日新聞の紙面を丹念に読むことになった。
まさに激動の昭和史を間接的に目撃しているような毎日だった。戦後、広島や長崎に落ちた原爆は当初、「特殊爆弾」というように表現されていたと記憶しているが、1951年のサンフランシスコ講和会議のあと、GHQの検閲がとけて、原爆下の広島、長崎の惨状が少しずつ報道され始めた。
その記事を読み終わると、ぼくはしばしばトイレに立った。ひとりきりの空間で思い切り号泣するためだった。恐らく当時、これらの記事を読んで、泣かなかった日本人はおそらくいなかったのではないだろうか。
爆心の近く、キノコ雲の下にいた小学生が、何キロも離れた家を目指して懸命に歩き続けた。家にいた母親は心配で心配でたまらなくなり、家の前でずっと待っていたが、小学生はなかなか姿を見せなかった。
やがて小学生は帰ってきたが、顔は膨れ上がり、見分けがつかなかった。だが、母親は、焼け爛れたその小学生の唇から、小さい声で「おたあさん」と発された一言を聞いてすべてを理解した。
母親はその小さい声を耳にして一言、『よく帰ってきたね。えらかったね』としか言葉が出なかった。そして、小学生はその言葉を聞いて、まるで安心したかのようにして亡くなっていった。
亡くなっていくことだけではなかった。生き残った者も耐えていかなければならなかった。自分たちだけを除いた家族がすべて亡くなり、小さな女の子と老いた祖父だけが生き残ったが、どうしようもない事情のために別れ別れにならなければならなくなった。女の子も祖父も、小さい家族の思い出を語り合う相手がいなくなってしまう。そのような別れが一体、どれほどあったことか。
キノコ雲の下にいた子供たちの作文をまとめた『原爆の子』(岩波文庫)には、「おたあさん」の悲劇は何度も何度も繰り返し登場してくる。そして、峠三吉の『原爆詩集』(青木文庫)にはこんな詩がある。
〈仮包帯所にて〉あなたたち/泣いても涙のでどころのない/わめいても言葉になる唇のない/もがこうにもつかむ手指の皮膚のない/あなたたち
血とあぶら汗と淋巴液とにまみれた四股をばたつかせ/糸のように塞いだ眼をしろく光らせ/あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ/恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが/ああみんなさきほどまでは愛らしい/女学生だったことを/たれがほんとうと思えよう
焼け爛れたヒロシマの/うす暗くゆらめく焔のなかから/あながでなくなったあなたたちが/つぎつぎととび出し這い出し/この草地にたどりついて/ちりちりのラカン頭を苦悶の埃に埋める
何故こんな目に遭わねばならぬのか/なぜこんなめにあわねばならぬのか/何の為に/なんのために/そしてあなたたちは/すでに自分がどんなすがたで/にんげんから遠いものにされはてて/しまっているかを知らない
ただ思っている/あなたたちはおもっている/今朝がたまでの父を母を弟を妹を/(いま逢ったってたれがあなたとしりえよう)/そして眠り起きごはんをたべた家のことを/(一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない)
おもっているおもっている/つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって/おもっている/かつて娘だった/にんげんのむすめだった日を
そして、この詩集の冒頭に置かれた有名な言葉はこうだ。
〈序〉ちちをかえせ ははをかえせ/としよりをかえせ/こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる/にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり/くずれぬへいわを
へいわをかえせ
被団協の原点はここにある。
しかし、この日本の政権党である自民党は、この原点とは逆の方向を目指して歩いてきた。
実は、安倍晋三の祖父、岸信介元首相は1957年5月7日の参議院内閣委員会で「自衛の範囲内での核兵器保有は可能」と答弁している。あくまで自衛のためであれば、中距離の戦術核兵器で敵基地をたたくことは憲法上許されるという解釈だが、日本の核保有論議でここまで踏み込んで保有可能論を明言した首相は初めてだ。
もちろん、現実には、原子力基本法第2条に、原子力は「平和目的」に限るとうたってあり、これが核保有の歯止めとなっている。しかし、このことももう少し深く考えてみれば、核開発へ向った北朝鮮もイランも、表向きは「平和目的」をうたっているはずだ。このため、原子力基本法第2条が核保有の有力な歯止めになるとは考えにくい。
日本のノーベル平和賞受賞者は被団協が初めてではない。50年前の佐藤栄作元首相が存在する。「非核政策の推進」などを理由としてまさにノーベル平和賞を受賞した。「憲法上、核保有は認められる」と明言した岸信介の弟であり、安倍晋三の大叔父である。
実に歴史の皮肉であるとぼくは思う。ちょうど50年前の1974年、繰り返しになるが、この佐藤栄作首相が「非核政策の推進」を理由に、日本で初めてのノーベル平和賞受賞者となったのだ。
日本の非核三原則「核兵器を持たない、作らない、持ち込ませない」という政策は、世界で唯一の被爆国である日本が、どうしてもゆるがせにできない国家と国民の大方針として世界的に発信し続けているもので、佐藤栄作元首相の時につくった。そしてこの非核三原則の存在がノーベル平和賞受賞の大きい動因となった。
しかし、驚いたことに、この非核三原則はまったくの嘘八百であったことがじきに白日の下にさらされることになった。そして、佐藤元首相は、この三原則が嘘八百であることを百も千も承知の上で、しかもその嘘を上回る沖縄密約などの大嘘も重ねた挙句に、満面喜びの表情さえ浮かべてノーベル平和賞を手にしたのである。
どういう嘘だったのか。それを明らかにしよう。
非核三原則の中で、嘘八百であることが最初にわかったのは「持ち込ませない」という3番目の原則だった。「在日米軍基地には核兵器を搭載した原子力空母や原子力潜水艦がしばしば寄港しているのではないか」、「日本の領海内を核搭載艦船が通過していたのではないか」といった疑問は常にあった。
「持ち込ませない」という時の「持ち込み」という日本語は、英語では3つを意味している。ひとつは、通過を意味するtransit、ふたつ目は進入を意味するentry、そして三つ目は、設置や貯蔵を意味するintroductionである。
実は、1960年に日米安全保障条約を改定した岸元首相は、米国との間で、最初のtransitとentryを認める合意をしていた。つまり、米国からの核兵器は日常茶飯事として日本の基地に寄港し、積み下ろしされていたということだ。その数は、数千回と推定されている。
しかし、日本の歴代政権はこう繰り返してきた。
――核兵器の日本領域内通過は日米安保条約の事前協議の対象になる。したがって、米国からいまだかつて事前協議の申し込みがないところを見ると、核兵器の通過はないのだ。
ところが、通過を意味するtransit、進入を意味するentry は、実は日常茶飯事だった。この部分が、三原則の「持ち込ませない」の部分を嘘八百にする「密約」の核心である。
では、当時の岸政権とアイゼンハワー政権は、本当に完璧な密約を結んでいたのだろうか。実は、この部分はよくわかっていない。というのは、この時、日米安保条約改定に際して日米の間で最も熱く議論されていたのは、「核の持ち込み」の問題ではなく、「沖縄問題」だったからだ。東北アジア戦略体制の中で沖縄の基地を維持するということが、共和党、民主党を問わない米国の基本方針だった。
その時に、沖縄配備の核基地をどうするかということが喫緊の問題となっていた。岸政権は、沖縄の中に、まさに設置や貯蔵を意味する核兵器のintroduction も認めていた。そして、その後1960年代には、「メースB」と呼ばれていた核基地が沖縄の中に存在し、核兵器を弾頭につけたミサイルが中国に照準を合わせて配備されていた。
しかし、その後の自民党政権の対応は、ごまかし以外の何者でもなかった。国会での野党の追及に対して「核兵器の配備はもちろん通過も一切ない」という主張を何度も繰り返した。そして、笑い話のようだが、そう繰り返しているうちに自民党政権の首相、外相もそう信じ込んでしまったようだ。
1963年4月4日、この事態に驚いたライシャワー駐日米大使が大平正芳外相を呼んで、事の真実を明かした。
――核兵器は日本国内の兵器庫に貯蔵され、しっかり設置されていない限り、「持ち込み」ということにはならない、単にどこかの港に入り、積み下ろしされただけでは、「持ち込み」とは言えない。
そして、今度は、大平が驚いてしまった。この密約の歴史的経緯を見ると、まず最初に岸元首相の大きいごまかしがあり、次に、池田首相、大平外相の知らされていながらの沈黙があった。ライシャワーからの通知を受けた大平は当時の池田首相にすぐに知らせたが、池田政権首脳陣はあえて公表の道は選択しなかった。そして、佐藤首相の時になると、すべて知っていながら非核三原則なるものをつくり、果てにはそのことをネタにノーベル平和賞までもらった。はっきり一言で言えば、国際的、歴史的な詐欺行為である。
そして、それどころか、佐藤栄作は密かに核保有そのものを考えていた。佐藤は内密にジョンソン米大統領に相談したが、ジョンソンはさすがにそれを拒否した。ジョンソンが代わりに佐藤に与えたのは再処理工場だった。そのときの核保有国である5大国以外では、再処理工場は日本だけに認められた。使用済み核燃料処理の過程で出るプルトニウムは、核弾頭の重要な原料となった。このため、いまや日本は3000発分の潜在的核弾頭保有国となっている。
核燃料サイクルは技術的、経済的に破綻しているのに、青森県六ケ所村の再処理工場を廃止しないのは、実はこのことが真の狙い、原因なのだ。佐藤政権時に、外務省内ではこのことに関する秘密委員会が作られた。ぼくはその報告書を読んだが、そこには「核の潜在的能力の保持については他国からの掣肘を受けない」という趣旨のことが記されていた。
それだけではない。1972年5月、佐藤内閣の下で沖縄施政権が日本に返還されたが、沖縄にはそれ以前「メースB」と呼ばれる核基地があった。佐藤元首相は、いわゆる「核抜き」の返還を要求し、表向きそれに成功した。しかし、裏ではニクソン大統領との間にやはり密約が結ばれていて、有事の際には核兵器を再貯蔵するという約束が取りかわされていた。佐藤元首相の特使だった若泉敬がその著書『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋)の中で明らかにしている。
つまり佐藤栄作がノーベル平和賞を受賞した理由、「非核政策の推進」などということは完全な嘘八百だった。佐藤が密かにやっていたことはまるで逆のことだった。そして、その意味で、今回の被団協の受賞はちょうど50年目のまさに歴史の皮肉にあたる。
だが、その一方で、岸信介、佐藤栄作の流れは今も続いている。その係累である安倍晋三は、核共有、ニュークリアシェアリングを言っていた。その後継者を自称する高市もそれを考えていることはまちがいないだろう。そして実は、石破首相も考えている。アジア版NATOの狙いの一つはここにあるのではないか、とぼくは想像している。欧州のNATOはまさにそのことが主眼である。米国と核弾頭を共有することによって欧州とロシアとの間に均衡状態をつくるという眼目である。
核兵器を保有する、あるいは共有するとはどういうことか。フランスの人類学者、哲学者であるエマニュエル・トッドにその考え方を聞いてみよう。トッドは核共有の有効性は否定しているが、日本の核保有を次のように説いて推奨している。
――アメリカの行動の〝危うさ〟や〝不確かさ〟は、同盟国日本にとっては最大のリスクで、不必要な戦争に巻き込まれる恐れがあります。実際、ウクライナ危機では、日本の国益に反する対ロシア制裁に巻き込まれています。/当面、日本の安全保障に日米同盟は不可欠だとしても、アメリカに頼りきってよいのか。アメリカの行動はどこまで信頼できるのか。/こうした疑いを拭えない以上、日本は核を持つべきだと私は考えます。/日本の核保有は、私が以前から提案してきたことで、今回の危機で考えを改めたわけではありませんが、現在その必要性は、さらに高まっているように見えます。
――核の保有は、私の母国フランスもそうであるように、攻撃的なナショナリズムの表明でも、パワーゲームのなかでの力の誇示でもありません。むしろパワーゲームの埒外にみずからを置くことを可能にするものです。「同盟」から抜け出し、真の「自律」を得るための手段なのです。
――つまり核を持つことは、国家として、“自律すること〟です。核を持たないことは、他国の思惑やその時々の状況という〝偶然に身を任せること〟です。アメリカの行動が〝危うさ〟を抱えている以上、日本が核を持つことで、アメリカに対して自律することは、世界にとっても望ましいはずです。
上記はトッド著『第三次世界大戦はもう始まっている』(文春新書)からのものだが、ぼくはその見解にやはり反対を言わざるをえない。まず、ここまで紹介してきたように、核密約を結んできた自民党政権が今も存続し、佐藤栄作のように180度ちがう核政策を裏で進めながらノーベル平和賞を図々しくも受賞するという行動を採る、そういう政権、そういう人間集団を信じることができない。
それだけではなく、たとえば高市早苗という図抜けて好戦的な政治家があと一歩で総裁にまで上り詰めるという自民党を信じることができない。その対中国敵視政策は、現実の国際政治場裏に通用するものとは思えない。中国との間で戦争一歩手前までいく恐れさえある。そして、その場合に、高市のような危険な政治家が核兵器のボタンを押す権能を有しているとしたら、どういうことになるだろうか。
ぼくが日本の核保有に反対する二つ目の理由は、原爆の生々しい証言にあふれた日本の現代史にある。この現代史に触れた時、日本にとって核保有の選択肢はありえないということは自明なことだろう。
石破首相が考えている、不平等な日米安保条約のあり方については後日また触れる機会があるだろう。