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「転轍手」を探して/丸山眞男①

石破新内閣が発足し、皇居で親任式、認証式が行われた。

この国の政治の在り方、あるいは天皇制ということについて、思想史家、丸山真男の思想的営為を中心に少し考えてみたい。

丸山が最も影響を受けた思想家は、マルクスとウエーバーのふたりであろうと思う。ウエーバーの次の言葉は示唆的である。

「人間の行為を直接に支配するものは、利害関心であって、理念ではない。しかし、「理念」によってつくりだされた「世界像」は、きわめてしばしば転轍手として軌道を決定し、そしてその軌道の上を利益のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきたのである。」(『世界宗教の経済倫理・序論』より)

ウエーバーが生涯をかけて取り組んだ世界宗教の諸相。「その「理念」によってつくりだされた「世界像」」は、その社会、その国民の歩んでいく「軌道」を決定し、しばしば「転轍手」の役割を果たした。マルクスが生涯をかけてそのメカニズムを解明しようとした下部構造、あるいは「利害関心」、「利益のダイナミックス」は、その「転轍手」が決定した「軌道」の上を走り続けた。

であるならば、日本の「軌道」はどのように敷かれ、何処に向おうとしているのか。常に変わらぬ丸山の関心はそこにあった。それを考える手立てとして、丸山は天皇制の思想的解明に向った。1959年、筑摩書房は丸山や竹内好らを中心に「近代日本思想史講座」の刊行を始めた。丸山はその第2巻「正統と異端」の責任編集を受け持った。その刊行案内にはこうある。

「近代日本の思考と行動様式を決定的に支配してきた天皇制社会の精神構造を、正統と異端のダイナミックな緊張関係に視点をすえつつ追跡する。」

丸山は、天皇制の思想的解明を通じて、この国の「軌道」を見定めようとしていた、と言える。当初の執筆分担は、丸山と藤田省三、神島二郎、石田雄の4人だったが、後に神島が抜け、延々と刊行が遅れた1972年には、丸山が「正統性の成立」について、藤田が「異端の諸類型」、石田が「交錯と矛盾」について執筆することになった。

この間、3人による研究会、後には丸山と石田のふたりによる研究会が続けられたが、結論を言えば、1996年8月15日に丸山が亡くなるまでついに刊行はならなかった。

なぜ刊行はならなかったのか。その理由は3人のそれぞれの論述によってほぼ明らかであろうと思う。まず、ほぼ完成稿に近い藤田のものを見てみよう。

「たしかにこの(日本)社会にも「神と呼ばれるもの」があったし、又今も「神社」は存在する。しかしそれはその神に万人、万物が帰依するものとしてあったのではない。「上代人はその信仰する神々の偉大さを現はすために神々を物語ったのではなく、ただ天皇の神聖性を現はすためにのみその根源としての神々を、従って『神代史』を物語ったのであった」。だからそこでは論理的には「天皇の神聖な権威が先であって神代史はあとなのである」(和辻哲郎『尊皇思想とその伝統』)。つまり何処までも「此の世」の社会秩序の現世的統合者を「神聖化」することが意図されているのであって、「神々」はそのための手段として現われ出たものに過ぎない。」(『異端論断章』)

和辻の引用をもって藤田の語るところは、「此の世」の社会秩序の現世的統合者、つまり天皇の神聖な権威を輝き出させるために、その手段として「神々」をあとから作り出したというものであった。

次に丸山を見てみよう。ここで、「正統」の考え方をふたつの概念に分けている。まず、「一定の教理・教義がまず前提されて、その学問ないしはイデオロギーの「正統」が論じられているということ」、つまりキリスト教世界におけるorthodoxy 。これを「O正統」と呼ぶ。もうひとつは、「特定の統治者あるいは統治体系が、単なる暴力支配に拠らずに、成員の服従を徴求しうるための資格づけ、つまり政治学や社会学でいう支配のlegitimacy 」。これを「L正統」と呼ぶ。

「重要なのは(中国における)「天」がいかなる個別的、具体的な君主あるいは王朝からも超越しているという点である。堯舜以下いかなる聖王も「天」となんら血統的系譜関係に立っていない。それは「民族宗教」といわれるユダヤ教の最高神エホバがユダヤ人やユダヤの王の祖神でないのと原理的に同様である。(略)「継天」も「立極」も朱子の造語ではないが、彼が(略)これを成句としたのは、いうまでもなく、天道もしくは天の意思を継承して、「道」の規準を立てた、という意味で、道統(O正統)の由来を説くにあった。-(略)-「天」を皇祖神に直結し、天照→ニニギノミコト→歴代皇統という血統的連続の引照基準として「継天立極」を持出す解釈と対比すれば、彼我の意味の異質性は明らかであろう。(略)このL正統をめぐる彼我の対照はさきに見たような、宇宙開闢が「国生み」のなかにビルト・インされているような日本神話の構造の問題と、いうまでもなく内的に連関している。」(『闇斎と闇斎学派』)

『闇斎と闇斎学派』は、1980年3月に執筆。天皇制における「正統と異端」問題を書き切れずにいた丸山が、同じ問題意識に基づいて山崎闇斎の学統の「正統と異端」問題を著したものだ。しかし、ここで天皇制をめぐる正統問題はほぼ結論を見ている。中国やユダヤにおけるO正統とちがって、日本の天皇制はL正統であるとする見解である。

石田を見よう。

「この日(1988年5月26日の研究会)の討論の中で私にとってとくに重要と思われたのは、丸山の次のような発言であった。およそ「L正統がO正統に転化することはない」のであって、日本の場合でも「L正統がO正統化するというよりO正統の論理というか思考様式を借りる」にすぎないと。(略)日本の場合は「擬似O正統。O正統ではないが、O正統の思考様式に似ている。これが国体論争になってくる。その場合にもO正統の正統と異端ではなくて、根本はL正統の正統・異端なんです。だから非国民になる」という発言もみられる。(略)L正統がO正統に転化することはないという一般理論は日本の場合にも適用されるといい、日本のは「正統なき異端」とまで規定するこの丸山発言は、「天皇制社会の精神構造」を「正統と異端」の分析枠組でとらえようとした約三十年以上前の出発点からみると、大きな重点の移動を示しているといえよう。」(『「正統と異端」はなぜ未完に終ったか』・『丸山真男との対話』より)

「天皇制社会の精神構造」を支配する正統性をO正統ととらえ、その世界像を解明することによってこの国の軌道を読み取ろうとした丸山にとって、世界像のないL正統でしかない天皇制という存在は、拍子抜けのするものであったろう。

ヨハネ福音書の冒頭の言葉が連想される。

「はじめにロゴスがあった。ロゴスは神とともにあり、ロゴスは神であった。」

ロゴスは、言葉、あるいは論理や真理というように翻訳されている。このことを言い出したのはギリシャの哲学者、ヘラクレイトス。その影響を受けたとされるヨハネ福音書では、ロゴスはイエス・キリストを指すが、そこで述べられていることは、原初に人間世界を支配していたのは血統ではなく言葉であり、論理や真理、つまりは世界像に直結するような超越的なものであった、ということである。

文学的な比喩になるが、それと比較するに、日本における人間世界を支配していたもの、支配し続けているものは、言葉ではなく血統、つまりは「はじめに血ありき」ということである。

天皇が血統をたどって皇祖神をまつり、さらに皇祖神は神々をまつる。神々はさらに霊を拝む。その先の霊はいつのまにか蒸発してしまっている。ここに起る現象は、霊や精神世界の秩序付けではなく、呪術的祭儀の秩序付けである。マギーから解放されていない天皇制において「祭政一致」が重視されるのはそのためだ。藤田は、天皇制の特質についてこう分析している。

ぼくは、小学生のころ、生活のある場面で不思議な違和感を感じるようになった。それは、たとえば学校の体育館かどこかでなにかの式典が始まると、なぜか暗い雰囲気になり、自分もなぜだかわからないが、気持ちを縮こまらせて、頭を下げ気味にしなければならない気持ちになる、というものだった。

その気持ちと雰囲気は、ちょうど「お葬式」に似ていた。子供の私はそう感じた。その気持ちがどのあたりから湧き出てくるのか、藤田や丸山の説明によって、いまや十分に理解できるような気がする。だれもが納得するような言葉による権威といったものは何ひとつないが、反対にだれもが逆らいがたく頭を下げなければならない雰囲気、つまり「呪術的祭儀」の執り行われる空気がそこにはあったというわけだ。かくして、小学生たちはいまだマギーから解放されず、この国の成員の大勢はそれと意識できない呪術信仰の中にいる。

自民党の新しい内閣が発足し、10月27日投開票の総選挙を目指して野党が「政権交代」を目標に掲げるこの国の政治世界の現在。しかし、近代的な意味における政党の選択は可能なのだろうか。この国の政権党である自民党においては、言葉や論理がその正統性を付与しているとは言いづらい。自民党の言葉や論理はすぐに息絶えてしまう。石破新首相が最も重きを置く言葉と論理はどこまで命脈を保つことができるだろうか。

ひるがえって、丸山。その生涯にわたって最も強い影響を受けたウエーバーの言葉。

「「理念」によってつくりだされた「世界像」は、きわめてしばしば転轍手として軌道を決定」するというその言葉。丸山の人生はその「転轍手」を探し続けた人生だった。しかし、丸山が生を受け、生涯の研究対象としたこの国においては、ついにそれは見つからなかった。

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